怖い書き方になりますが、教育と洗脳は表裏一体です。
プラスのことは教育、マイナスのことは洗脳、というタグが貼られるだけの話です
やっかいなのは、プラスかマイナスかを決めるためのゼロの位置が、いろんな要素によって動いてしまう、ということです。
経済的な理由であったり、政治的な理由であったり、宗教的な理由であったり。
ということは、教育と洗脳は、基本的に同じ、ということです。
戦時中は人を殺せば英雄です。
戦争が終わればどうでしょうか。
基準は動きます。
戦争のような誰からしても愚かな行為はわかりやすいですが、線引きが難しいものなんて、たくさんあります。
このあたり、色即是空の考えにも似ているんではないでしょうか。
あんまり詳しくない者が勝手な意見です。
僭越至極。
仏教の本に書いてありましたが、人間には五蘊という五つの働きがあり、そのうち見た目を司るものが色(しき)です。
結構勝手に解釈してて、合ってるのかどうかわからないのですが、見た目にうつるもの、というのは絶対的な存在として、その見た目そのまま存在しているわけではないと解釈しています。
例えば、色(いろ)は目を通します。
花の色を黄色と判断しても、それはその物が絶対的な黄色なのではなくて、自分が黄色と判断したに過ぎない。
そこで、こう考えるんですよね。
目の前に青いセロファンを貼る。
いわゆる緑になると思うんですけど、友達からしたら、その花は黄色。
でも自分からしたら緑色。
生まれた時から青いセロファンが目に貼ってあったらどうでしょうか。
青いセロファン越しに見た黄色の花を黄色やと教えられて育ちます。
その人にとっては、その色が黄色です。
つまり一生、緑が黄色です。
そして、誰が自分の目には青いセロファンなんて貼ってないと言い切れるんでしょう。
見え方なんて人それぞれ違うんですよね。
医学的に大衆と異なることが証明できたら、色盲と名前がつきますが、色盲と診断されていない人が、みんな正しい色彩感覚をもっているなんて、誰にも証明できないです。
正しい色彩感覚なんて、そもそも無いんかもしれませんね。
あったとしてもそれは、相対的な話です。
そして、それは色だけではないです。
味覚、聴覚、触覚、あらゆる感覚が同じ話です。
そこに、自分が認識しているものなんて最初から無いんかもしれん。
やから色即ち是空なり、になるんかなと。
間違ってたらすいません。笑
相対性理論の本でも同じようなことを書いてました。
絶対的なものなんてない。
すべてのものが常に動いている。
やから相対性理論と般若心経を合わせて考える人がいますね。
自分自身で少しずつ勉強しながら、これは教育と信じてやっていくしかないです。
子供たちよ、お父ちゃんは毎日そう考えながらやってるでな。笑