春うらら
寝た子を起こす
選挙カー
聞こえる爆音
「わたし…」まで
・訳的なもの
穏やかな春が来た。
選挙カーが通って、寝ていた子供が起きてしまった。
大きな声で「わたし…」というところまで聞き取れた。
・解釈的なもの
狂歌ゆうんですかね。笑
風刺というほどのものでもない、おっさんの戯言です。
まあ最近のことではないですが、実際にせっかく寝た子供を起こされたことはあります。
選挙や投票の世界って、もう何年もイノベーションが起こってないですよね。
やれAIやweb3.0やNFTやゆうてる時代。
スマホもマイナンバーカードもあるのに、郵送で届いた投票券を握りしめて、本人がわざわざ近隣の小学校に足を運んで手書きで書いた紙を入れ、それを手作業で選別する。
そらGDPも延びんわ。笑
わざわざ作り出された無駄に対してお金を払う構図になっているように思うけど、ホンマにこれでいいんやろうか。
市議選と県議選が同じ月の別の日にあったりもします。
春うららかな4月の大事な日曜日を2回も使うことになります。
いや、もちろん選挙ってめちゃくちゃ大事ですよ。
やからこそ文句言いながら行ってるし、子供にも選挙の重要さを教えてます。
文句というか首を傾げながら生活している感じですね。
どうしても入れたいほどの素晴らしい候補者がいたり、その選挙によって素晴らしい未来が訪れるのであればわかる。
いますかね、そんな人。笑
消去法で入れる投票は悲しいし、消去法でも入れる人がいない投票はもっと悲しいですよ。
最近の日本の投票率の低さは目を見張るものがありますが、投票率が上がる工夫ってされてますかね。
投票済証明書を持って行けば定食屋が割引になる、というのは自称先進国での正しい施策なんでしょうか。
アレルギーのある人も多いと思いますが、インターネット無しで生活できる人は、もうほとんどいない世の中、やっぱりデジタルデバイスを使うのは避けて通れないと思います。
若い人の投票率も上がるし、時間の無い子育て世代の投票率も上がると思います。
投票率が上がると困る人がいるんやなと穿った見方をされてもおかしくないと思います。
このままでは子供に胸を張れない。
そして選挙の象徴。
象徴というか風物詩。
選挙カーですよ。笑
これはあれですか、竿竹屋さんと同じビジネスモデルということですか。
すごく疑問なのが、この選挙カーによる街宣が「誰のための」「何を目的とした」存在なのかが、ちょっと理解しにくいです。
少なくとも、これは「有権者」のための行為なんでしょうか。
まさか候補者のための行為になってないかと。
候補者からすると「名前を覚えてもらう」というメリットがあるかもしれませんね。
ただし、このメリットは見せかけのもので、覚えてもらう、というよりは、擦り込む、やと思います。
有権者って、数多く耳で聞いた候補者に投票するようなアホな生きもんなんでしょうか。笑
少なくとも、そんなアホな生きもんと思われているということでしょうか。笑
そして、数秒で聞こえなくなってしまう中で何を意図して実施されているのか。
それこそ候補者名くらいがええところじゃないでしょうか。
名前を言うタイミングじゃなかったり、屋内にいたり、視覚が十分でない人からしたら、候補者名すらわからないです。笑
誰かわからない状態ですら音は聞こえてくる。笑
少なくとも、そんな短い時間で政策を伝えることは難しいと思うので、「政策を広報する」ためのものではないように思います。
政策については実際に有権者に知らせる必要はあると思うし、有権者も知る必要があります。
時代はどんどん変わっているので、ウェブ上でのやり取りが本来はもっと増えていてもおかしくない。
名目上は、全体に等しく伝える必要がある、という意味で、役所の手続きもそうですが、この国は、どうしても紙媒体や口頭での通知に優位性を残してしまっているように思います。
柵(しがらみ)による軋轢(あつれき)も大きいと思う。
もし演説が必要であるなら、元々喧騒のある日中の繁華街が適切やと思います。
人が集まるから候補者にとってもメリットは大きいと思います。
今までやってたからやる、とりあえず鳴らしとけ、次の目的地まで黙ってたらもったいないから名前だけでも叫んどけ、になってたら国として思考停止してしまってるように思います。
育児休業給付金の申請でも思いましたが、実際そういうケースがすごく多い。
先進国どころか「自称先進国」の地位も危うくなる。
車やからあかんとかそういう話ではないです。
自転車で回るから偉いとか、自分でビラをポストに投函するから偉い、みたいな話は「手作業であれば尊い」みたいな僕らの世界の古き町工場文化と似ていて違和感を感じます。
汗を流せばいい、というものではない。
まして、己の非効率さ故に流れた汗に対して、求めてもいないお客さんに対価を求めるのは、僕は間違ってると思います。
企業努力をしたうえで、必要な金額や付加価値を正当な対価として請求したいし、そうしてるつもりです。
むしろ選挙カーによる国民としてのメリットがあれば、何やったら静寂を犠牲にしてでも、もっとやるべきですよね。
政治も、教育ですら、成果は問われます。
効率を第一義にしない、というだけで。
三島由紀夫さんの本で、5年かかることは政治問題、10年以上かかることは教育問題と書いてあったと記憶しています。
鵜呑みにするつもりはないですが、実際政治問題も教育問題も時間がかかります。
この2つ、現代の日本が極めて苦手なものと認識しています。
町工場も同じなんですが、この国って「今すぐじゃないけど、いつかやらないといけないこと」に対してすごい脆弱やと思います。
例えば都市計画学のようなもの、すごいお粗末ですよね。
石碑だけ立派なものが立ってたりする。
はたして未来への投資になってるやろうか。
おそらく自分の手柄になりにくいことに手を挙げる人が少ないんやと思います。
西鋭夫さんが本に書かれてましたが、マッカーサーも統治時代の日本で、各地域の首長の選出に苦慮したという記述がありました。
さきほども書きましたが、政治も教育も合理性が正義にされるべきではないです。
目先のことだけでは動けないので。
灰谷健次郎さんも本に書かれてましたね。
アンビバレントというか、同時に多く発生するベクトルに対して、そのバランス感覚の物差しをもった人が少ないんやと思います。
思い返せば、主張の是非を置いといて、福沢諭吉、新渡戸稲造、吉田松陰、塙保己一、二宮尊徳、みなさん偉人と言われる方ですが、その思想の強さや影響というものは当人の寿命を遥か超えていると思います。
この点、松下幸之助さん、本田宗一郎さん、はたまた手塚治虫さんなんかも同じと思います。
もちろんこれは結果論で、亡くなった人に対して、あの人はすごかった、という類の論理ではありますが、実際「自分の名声のためにやっているわけじゃない」という思想は、現代の日本人にとってかなり稀有なものになったのかなと勝手に思っています。
思想や哲学については、子供たちにも日々じっくりゆっくり話しています。
もう、ため息交じりに、こんなこと言うの嫌ですよ。
また選挙かあ。