文化の話です。
自分なりの文化論もどきです。
高等ではなく荒唐。笑
好きなように書き殴った気まぐれの戯れ言です。
僕、文化という概念がすごく好きなんです。
一口に文化といっても様々。
宗教とか生活様式とか個人がもつ性格や教育とも密接に繋がって融合します。
絶対に切り分けることはできないし、切り分けてはいけない。
特に日本においては、宗教を凌駕する存在が文化といっても過言ではないと思います。
現に、よく言われることですが、日本で生活する多くの人が、初詣のために神社に行き、お盆に墓参りをし、クリスマスにはケーキを食べてプレゼント交換をし、結婚式は教会で神に誓い、お葬式には数珠を持っていきます。
これは宗教ではなく文化です。
神式の祝詞も、仏式のお経も、教会の讃美歌も、このイベントの前には存在しません。
日本教という言葉も古くから存在するようです。
いわゆる外来語もそのうちの一つと言っていいと思います。
トイレであろうが、ダイバーシティであろうが、日本に輸入されてカタカナになった瞬間に日本語になります。
解釈どころか、意味が変わるものもあります。
僕が言いたいことは、文化は大事にせんとあかんということです。
飲める水で汚物を流す国に住んでいる贅沢。
文化の海とも言える日本に住んでいると、コップの水の大事さに気づきにくいんでしょうね。
日本は最果ての国とも言われる所以(ゆえん)だと思います。
行政まで一緒になってポップカルチャーを取り入れる国は日本くらいだそうです。
この国は、文化という最終列車が行き着く終点駅か、それともただの吹き溜まりか。
僕にとって、好例の最たるものがわさびチューブです。
今となっては日本文化の象徴の代表ともいえるわさび。
wasabiと書いた方がいいか。
チューブに入って100円くらいで売ってます。
めっちゃいいやつでも200円くらい。
冷蔵庫に入ってない人のほうが少ないと思います。
今、わさびと聞くと、茎が残った本わさびではなくて、チューブの方を連想する人の方が多いんではないでしょうか。
このわさびチューブを見て、こんなものはわさびじゃないと嘆く人いますか。
僕はこの姿でも残ってくれたことに感謝したいんです。
わさびチューブを昔の人が否定していれば、わさびが一般家庭に残って、現代でも食べ継がれている(変な日本語笑)ことはなかったと思います。
ありがとう昔の人。
ありがとうワサビチューブ。
おかげで刺身がおいしく食べられます。
逆に失敗したんちゃうかと僕が思っているものがあります。
着物です。
日常生活の一部として着物を着る人がこの国に何%いるんでしょうか。
着物がお金持ちの象徴みたいになってほしくなかったです。
デニムの着物。
木綿の着物。
ありやと思います。
ポリエステルの着物。
いいじゃないですか。
甚平みたいな、階段や椅子での生活に向いた着物に変わっていってもよかったんやと思います。
今の日本のルールでは、紋付袴よりも燕尾服の方が格上だそうです。
この国は利便性に負けたんでしょうか。
悲しいですよね。
やから、大事なイベントになると燕尾服での参列になるんです。
やから、ノーベル賞受賞式も、燕尾服での参加になるんです。
あえて紋付袴で出た川端康成がかっこいいです。
今なら批判されるかもしれませんね。
マナーがなってない。
日本人ならルールを守れ、と。
当時も批判はあったんかもしれません。
民族衣装が未だ残るブータンがうらやましいと思うこともあります。
自分は足が短いのでスーツが似合わない。
こんなどこの民族衣装ともわからないものを、ありがたがって着ることに疑問を覚えます。
着物を着る財力も能力も気力もない自分が情けなくなります。
サザエさんの波平よろしく着物をさらっと着こなせる大人になりたいと思います。
将来は、着物を着てチック・コリアを聴きながらリーデルのワイングラスに日本酒を注いで、嫁はんと囲碁を楽しむと決めてるんです。
文化は混ざると最強になると思うんですよね。
僕が思う最強の組み合わせは、女性の和装+洋髪だと思います。
めちゃくちゃ可愛い。
おむすびみたいな和髪のかぶりものはちょっと、て思いますね。
完全に好みですけど。笑
袴にブーツもめちゃめちゃありありです。
それだけで大正デモクラシーに憧れも覚えます。
当時は下駄とブーツが選べたとか。
いいものは残して、変えるべきは変える。
変わることを恐れてはいけない。
変わることを厭ってはいけない。
文化を残す、ということは変えずに残す、ということではなく、変えながら残していく、ということやと思います。
文化は化石ではなくてナマモノですよ。
ポリエステルのものは着物ではない?
そんなことを言って、将来の子供とか孫の着物姿を未来から取り上げるのを、やめてほしいんですよ。
どう思われますか?