山岡荘八さんの著作です。
文庫で3冊。
読んだきっかけは前職の上司に「お前は龍馬になれ」という言葉と一緒に、文庫の1巻を頂いたから。
1巻だけ途中まで読んで、ほったらかしてあったんです。
前職を辞めたのが2009年なので、14年経ってました。笑
課長、すんません。笑
読み終わると真意が少しわかりました。
僕は、めったに人に本を薦めません。
本が好きやからです。
本好きでもないのに、たいして読み込んでもない本を人に薦める人がいますが、僕には理解できません。
僕が本を薦めるのは、
・相手が本を好きで
・自分がその本のことを好きで
・その本を薦める真意がその人に伝わると確信している
という時です。
その条件が揃った時だけ薦めるようにしています。
本を薦める、ということは、その本を読む時間を奪う、ということ。
その本の厚さの命をその人から取り去れるか、自分に問うてから薦めています。
おそらく同じように感じて上司は僕に坂本龍馬を薦めたのではないかな、と感じました。
14年も経って読み終わったのも、何かの縁なんかもしれませんね。
と、自分の怠慢を美談に仕立ててみます。笑
この坂本龍馬という男、倒幕の立役者としてめちゃくちゃ有名な人ですが、どんな人間やったのか、は知らないままでした。
あくまで小説なので、当然脚色されているはずですし、事実と違う点も多々あると思います。
でも、僕にとっては、そこはあまり重要ではない。
既に僕の中には、僕が作った坂本龍馬が生きていて、自分とともに在るからです。
読んでいて思いましたが、坂本龍馬の思想に強く惹かれるとととに、近いものがあるなと強く感じました。
龍馬は相手を選ばず、おべっかを言わず、自分の考えを自分の言葉で話す人です。
本来、武士は身分の上下に厳しく相手の呼び方も変えないといけないのですが、誰にでも「おんし」と話しかけて憚らない。
要らないものは要らない、と言う。
欲しいものは欲しい、と言う。
時にそれは摩擦を呼び、一時的な不和を伴いますが、真意はずっと変わらず、いつか相手に伝わります。
伝わらなければそれまで、と考える。
そこが自分と全く同じ。
倒幕に際し、美学や理想だけで動くのではなく、対面からやりあうのではなく、とんちや閃きを利かせて動こうとする人でした。
現実的で、ちょっとずるい。笑
それも自分と同じ。
不和自体を良しとするのではなく、相手に阿(おもね)るのでもなく、ありのままで本質を気にする。
表面上だけのことは、あまり気にしない。
それも同じ。
福沢諭吉や二宮尊徳の宇宙観は定評がありますが、宮本武蔵や坂本龍馬にも自分自身が作り上げた独自の宇宙観を感じます。
日本では古来から自然災害も多く、自然とともに在る、ということが神道信仰とも強く結びついていると思いますが、やはり武士には武士の考え方があるんでしょうか。
特に、宮本武蔵と坂本龍馬からは、自然と生きる、自然に生きる、ということを強く感じます。
意識せずともそうなっている感じ。
自然と自然に生きる感じ。
ひつこいな。笑
この感覚めちゃくちゃわかります。
最近は羽虫が顔に止まっても払わなくなりました。
さすがに耳元の羽音や刺したり噛んだりは勘弁してほしいですが。笑
岡倉天心も「茶の本」の中で、日本人の美学について書いていますが、坂本龍馬は美学だけで飯が食えないことを強く理解していた1人だと思います。
特に家系が商人の流れを汲むので経済的な観点の論理や、商いに対する機知や嗅覚もあったのかもしれません。
武士と商人のハイブリッドゆうところでしょうか。
自分は武士でも職人でもないですが、職人と商人のハイブリッドという感覚を大事にしているので、このあたりにも親近感がわきます。
思えば今も長い長い国難に座礁したままになっているように思います。
自分はどうすればいいのか、考えてしまいますね。
日本人の心の中には、何人たりとも穿(うが)ちがたい、日本刀のような切れ味鋭く美しい志があると思いますが、それは幻想なんでしょうかね。
志士にはなれないけど、志をもった士でありたいとは思います。
僭越至極。
龍馬愛に火が付いたので、次は司馬遼太郎著「竜馬がゆく」を読みます。
龍馬さんに会ってみたい。
一緒にお酒を飲んで、お互いの生き方について「おんし、なんしゆうが」と話せたら、どんなに楽しいやろうか、想像してしまいます。